罪人の未来



「ハッ…!ハッ……!ハッ……!」


江戸川コナンは、逃げていた。
真っ暗闇で、雨もどしゃ降りな中、路地裏とも郊外とも付かない所をひたすら逃げていた。
真っ暗で土ともアスファルトとも判別できない地面には、雨水で溢れており、
彼の通った後には、雨水とは別の赤い液体が滲んでいる。

彼は―――

コナンは、右腕を負傷していた。


「…ッ!」


次の瞬間、左脚を何かに貫かれたかのような激痛が走り、彼の身体は雨水溢れる地面に沈む。
雨の中を逃げ続け、息絶え絶えな彼は、力を振り絞ってうつ伏せのまま左脚に目をやると、
その脚には穴が開いていて、真っ赤な血が噴き出している。
噴き出た血は、地面に溢れた雨水に染み込み、感覚だけでなく視覚的な痛々しさを演出していた。

そんな彼の頭に、何者かがゴリゴリと冷たい銃口を押し付ける。


「灰原………」


銃口を押し付けてきたのは、 この暗闇に溶け込んでしまいそうな程真っ黒な服に身を包んだ、灰原哀―――

信頼における相棒にして、守るべき存在であるはずの少女―――

普段からツンとした態度が目立つものの、かと言って根っこは冷たい性格ではない。
だが、倒れたコナンを見下ろすその目は、恐ろしいほど冷め切っている。


「どうしてだよ…?何で、こんな事……!」


傷を付けてきた挙句に銃を突き付けてくる相棒に対し、
コナンは疲労感と右腕・左脚の激痛に苛まれる体に鞭打ち、絞り出すような声で疑問をぶつける。


「決まっているじゃない…
結局、私とあなたは相容れない存在では無かったって事……」


彼の疑問に対し、哀は表情一つ変えないでそう言い切った。
彼女の返答に、コナンは小首を傾げる。


「どういう事だよ…それ……?」

「あなた、前にこう言ったわよね?"運命から逃げるな"って」

「それがどうした…?」

「私は、その言葉をずっと胸に秘めて今日まで生きて来たわ。けど、それがちょっと甘かったみたい……」

「だから…何だってんだよ……!」

「一昨日、みんなにバレちゃったのよ。
私が犯罪組織の人間で、例の毒薬の開発に手を染めた人間だって」

「は…?そ、そんなバカな……」

「嘘じゃないわ。そしたらみんな、口を揃えてこう言ったわ。"悪魔"だって………」


その時、冷たい哀の目から涙がこぼれたように見えた。
もしかしたら、目の周りに落ちた雨の雫かもしれない。
だが、コナンには本人の涙のように見えて仕方がなかった。


「…ま、仕方ないわよね。
私があの薬を作ったせいで、無関係な人間の命が奪われたんだもの」

「けど…毒薬なんて作るつもり、無かったんだろ……?
それに、アイツらがアレを殺しに使ったのも、おめぇに黙って勝手に………」

「だから?」

「え…?」

「だから何なの?何も知らずに作らされて、勝手に使われたから、
開発者の私は何も悪くないって言いたいの?全ての元凶を作ったのに?」

「けど…その毒薬のおかげで、オレはこうして生きて……」

「確かに生きてるわね。けど、形的には歪んでるじゃない…あなたも、私も………」

「…おめぇ、ホントどうしちまったんだ?」


哀の言っている事が全く理解出来ないコナンは、再び問い掛ける。
それに対し、哀はこう答えた。


「気付いてしまったのよ…私の運命が………
私の運命は、犯罪組織の科学者として、世間から罵声と暴言を浴びせられる…………
フフッ……何とも、私らしい末路だわ」


自嘲気味に答える哀に、コナンは絶句してしまう。
それを良い事に、彼女は諦めに満ちた風にこう言った。


「分かったかしら?私の未来に光は無い…
あるのは、組織と同じ真っ暗な闇……輝かしい未来が無い。それが運命………
その運命から逃げるなと言ったのが、あなたよ工藤君?」

「お、オレは…そんなつもりじゃ……!」

「じゃあどう言うつもりだったの?気休め?それとも同情?
はたまた、自分を小さくした元凶を逃がしたくなかった?」

「そ、それは……」

「…もう良いわ。とにかく、私はこんな運命から逃げるなと言ったあなたが憎いの。
殺したくてたまらない……」


そう言いながら哀は、ゴリゴリと銃口を強く押し付ける。


「おい……おめぇ、本気なのか……?」

「ここまでされておいて、冗談とでも思ってるのかしら?…私、本気よ?」

「そんな事したら、おめぇの立場は余計に悪くなっちまうぞ…!」

「大丈夫。私も、あなたの後を追ってくから……どうせ、この世界に私の居場所なんてない」

「おい…早まんな………」

「言い訳は地獄でたっぷり聞いてあげる。じゃあね、工藤君………」


コナンの説得もむなしく、哀は拳銃の引き金に指を掛け、そして―――






「…!」


引き金が引かれたと思った瞬間、コナンは全く違う場所にいる事に気が付く。
彼がいたのは、毛利宅の布団の上―――


「なんだ、夢か………」


現実の出来事ではない。

その事実に彼はホッとするものの、悪夢を見た為か心臓バクバクで、全身汗びっしょり。
これ以上眠る気にはならなかった。


「何だってあんな夢を……」


彼の胸の中に、何とも言えないもやもやが残った。




その日、コナンは小五郎と共に警視庁を訪れた。
昨日解決した事件の調書を取りに来たのだ。
表向きは小五郎が解決した事になっているが、
今回の事件もコナンが眠りの小五郎を使って解決したものである。
その為、小五郎の推理の内容は、コナンが話す役目だ。


「…………」


しかし今日のコナンは、少しばかりボーっとしていた。
今朝の夢が、中々頭から離れず、聴取に身が入らなかったのだ。


「コナン君、どうしたんだい?」

「何処か具合でも悪いの?」


その事に気付いた高木刑事と佐藤刑事が、心配そうに声を掛けてくる。
そんな彼らに対し、コナンは普段通り猫を被りながら「大丈夫だよ」と返した。
小五郎は「真面目にやれ」と、文句しか言わなかったが―――



調書取りも終わり、小五郎とコナンは警視庁から出ると、
帰宅を選択した小五郎に対し、コナンは阿笠邸へ行く事にした。
昨日の事件で腕時計の麻酔針を使ってしまったので、補充したいというのもあるが、
一番の理由は、やはり今朝の夢が気になったからであった。


「博士ー…あれ?」


阿笠博士の事を呼びながら、家に入ったコナンであったが、
リビングに博士の姿は無く代わりに哀がいた。


「あら工藤君、何の用?」


普段通りに聞いて来る哀に対し、コナンは麻酔針の補充に来た旨を伝えると、
彼女は、阿笠博士は今昔の友人に会いに行っていて不在であると答えた。


「そっか…それじゃ、博士が帰って来るまで待つか」

「その間コーヒーでも飲む?今丁度、自分用に淹れようとしてた所だったんだけど」

「あぁ、頼む」


そうして哀は、自分とコナンの分のコーヒーを淹れる。
自分達にとっては当たり前のやり取り、当たり前の行動。
しかしコナンの中には、もやもやしたものが渦巻いていて、チラチラと哀の姿に目をやってしまう。


「はい、どうぞ」


そうとは気付かない哀は、
テーブルの前に腰掛けているコナンの分のコーヒーを差し出すと、
自分の分のコーヒーを持って、向かい側に座る。


「サンキュ…」


お礼を言うと、淹れたてのブラックコーヒーを一口すすると、向かい側の哀に目を移す。
向かいに座る相棒は、いつの間に持って来たのか、
テーブルの上のファッション雑誌を見ながら、コーヒーに舌鼓している。


「…!」


しかし、急に彼は哀から目を反らしてしまった。

似ていたのだ、今の彼女の服装が、夢の中の哀に―――

その姿が、夢の中の彼女の姿と重なってしまったのだ。


「…なに?」


目を反らした事を気付かれていたらしい。哀が首を傾げながらコナンに目を向けてくる。
いきなり、夢で見た時の服装に似ていたのに反応したとは言えず、
コナンは「あ…いや……」と口ごもってしまう。


「…………」


そんなコナンを怪しんでか、哀はジト目を向けて睨んでくる。
彼女に疑いの目を向けられたら最後、そう簡単に逃れる事は出来ない。
コナンは、先の行動を取った事を後悔したが、もう手遅れだ。


「…ワリィな。ちょっと…その、夢ン中のおめぇと同じような格好してたから………」


そう答えると、哀は「はあ?」と首を傾げる。
予想していた通りの反応を示す彼女に対し、コナンは自分が見た夢の内容を話した。


「…なるほどね。で、ここへ来たのは、その夢の中の出来事が気になってしまったからと………」

「麻酔針の補充に来たってのは本当だけどな。…で?」

「え?」

「だから、どう思う?」

「あなたが見た夢でしょう?そんな事聞かれても、どうしようもないわよ」

「それもそうだけどよ、お前今の聞いて
もしも現実の自分も同じ立場になったらどうなるのかとか、思わなかったのか?」


コナンの問いに、哀は「そうね…」と言って少し間を置くと、急に立ち上がる。


「もしかしたら…私も夢の中と同じになるかもね」

「え……」


そう言って、夢の中で見せた表情と似たような顔を見せる哀に、コナンは表情を凍り付かせる。
そんな事などお構いなしに、哀は彼にゆっくりと近付きながら喋り続ける。


「運命から逃げるな…
その言葉を信じて進んだ先にあったのが、あまりにも残酷な結末だったとしたら、
私は、自分の運命を呪うでしょうね。そして………」


至近距離まで己の顔をコナンの顔へと近付けると、冷めた目で彼の目を突き刺す。


「あなたを殺したい程憎む…」


冷たい目に突き刺され、コナンはまた夢の光景が思い返し、何も言い返せなくなる。
その時の彼の表情は、珍しいほどに血の気が引いていた。

だが―――



「…ッフフ。なーんてね」


哀は、イタズラな笑みを浮かべる。これにコナンは、拍子抜けと同時に、
彼女お得意の冗談に聞こえない冗談をかまされた事を理解した。


「おいおい…止めろよな、そう言うの………」

「けど、少しは気が軽くなったでしょ?」

「ま、まーな…………」


一応の感謝の意を示し、またコーヒーに口を付ける。
だが、哀はと言うと、彼に背を向け後ろ手を組みながら「けどね、工藤君…」と言ってこう続ける。


「私の正体が知られた瞬間、周囲から罵倒されるのは現実に起こる事だと思うわ」

「え…?」


彼女の口から発せられた言葉に、コナンはまた表情を曇らせる。
彼の顔を見ないまま、哀は話しを続ける。


「だってそうじゃない…私が両親から継いだ研究と発明が、
人知れず暗殺に利用され、その挙句犯罪組織が進めている研究に加担していたのよ?
それだけで、立派な悪党じゃない」

「けど、おめぇは毒薬なんか作ってるつもり無かったんだろ?」

「だからなに?何も知らなかったから悪くないなんて言い訳が通用しないの、
あなたが一番良く知ってるでしょう?」

「…………」


哀の言う事に、コナンは言葉を失う。


「それでも、あなたと博士は私の味方をしてくれるでしょうね。
けど、世間の人達は違うの。少しでも犯罪者と繋がっていると知れば、一緒くたにして叩こうとする……
そうなったら、あなたや博士達も巻き添えを食らうでしょうね」


と言いながら、ようやく哀はコナンの方を振り返る。

やっと見せたその顔は―――

瞳は、自嘲の色に満ち溢れている。


「私は、それ程の事をしてしまった人間なの。いわば罪人……
あなたはすっかり忘れてしまってるでしょうから言わせてもらうけど、
本来なら敵同士だったのよ?私達………」


「こんな危ない女を…
あなたをそんな姿にした元凶を、いつまでもここに置いておく勇気がある?探偵さん?」
最後に哀は、挑戦的な言葉を付け加えた。


「……………」


コナンは、改めて灰原哀がどんな女だったか、再確認した。
知らなかったとは言え、毒薬の開発に手を付けてしまい、
これまた知らない間にとは言え、自分の開発した薬で数えきれない人の命が奪われ―――

そして、自分が江戸川コナンになった原因も、彼女の薬。
姉や裏切りの件など、ある程度酌量の余地がある部分はあるだろうが、
それでも、彼女が黒の組織に加担していたと言う事実は消えない。


「確かに…すっかり忘れてたよ。おめぇが、とんでもない奴だったって事………」


けれど―――


「だったら、尚の事ここにいてもらわなくちゃな」


見捨てられない。見捨てる訳にはいかない。


「あら、どうして?」

「危ない奴ほど、ほっといたら何しでかすか分かんねーからさ」


守らなくてはならない。罪を犯したからこそ、光を掴ませてあげなくてはならない。


「探偵として、罪人を逃がす訳にはいかない?」

「たりめぇだろ?全部片付けるまでぜってぇ逃がさねぇし、逃げさせやしねぇ。だから………」




「これからも頼むぜ、相棒」


それが真実―――

たった1つの、真実―――――


「ま、せいぜい寝首をかかれないよう、気を付ける事ね」

「オレがそんな不覚とると思うか?」

「思う」

「…………」


皮肉めいたやり取りの末に放たれた躊躇い無しの一言に
コナンは何とも言えない表情を浮かべたが、
哀の口元が微笑んでいるように見えた為、自身も笑みを浮かべたのだった。





その後、帰って来た阿笠博士に時計の麻酔針を補充してもらい、コナンは帰路に就く。
その最中、彼は考えていた。何故、あんな夢を見たのかと言う理由を―――

それは、先の哀とのやり取りではっきりした。
自分はいつの間にか、哀がして来た事を忘れかけていたのかもしれない。
彼女が図らずとも、罪を犯してしまった人間である事を―――

それを忘れてしまった時、取り返しの付かない事態となってしまう―――

自分自身が無意識に掛けて来た警告だったのだろう。


「…こんな事忘れかけるなんて、オレらしくねぇなあ………」


自嘲気味に呟いた。

だがしかし、万一彼女の行いが明るみに出た時、
世間の人間が冷たい目で彼女を見るのは確かだろう。
好き勝手に叩く輩も現れるだろう。

その時、自分はどうすれば良いのか―――

罪人を守る探偵の汚名を着せられながらも、彼女を守るべきか?


「(なんて、今考えたって分かる訳ねぇよな………)」


そう、あくまで自分は探偵―――予知能力者ではない。
哀の未来なんて、どんなに思考を巡らせても、解き明かす事なんて不可能だ。
だが分からない故、どちらの結末に転んでもおかしくない可能性もあると言う事である。

そこで、小さくなった名探偵は願う事にした。





小さくなった罪人に、光に満ちた未来が来る事を――――











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